目次:本の目次へ 松田哲学に学ぶ/ 農業繁栄への道/ 家が栄える道/ 農業が好きで楽しむ人間の役得/
物心両面の豊かさ/ 経済活動における三原則/ 農業を楽しむ家が栄える真理/ 自分のウツワを知れ/
泡と消えた7桁農業/ 百姓を娘さんがなぜ嫌うか/ 農業が嫌われる条件/ 凧の自慢/ 味覚とは何か/
一番目の味/ 味とは何か/ 三代続く長者無し/ 経営は人なり/ 成功の秘訣 (了)
松田哲学に学ぶ
○月○日、熊本県泗水町に産業視察のため足を止めた。この地は、松田喜@先生が立派な農民教育をされたところである。松田先生の教えは、時は変わり、時代は流れようとも、人々の心の中に永遠に生き続けてゆくことだろう。松田先生の教えについて、私の主観も交えながら、少しふれてみたいと思う。
農業繁栄への道
最近は農村にも工場が進出するようになりました。サラリーマン戸数が、農村の中にどんどん増えてゆく今日この頃です。
泥んこになって草取りをしている農民を尻目に、週休2日制で時間を持て余した若者がピカピカの車で通り過ぎるかと思えば、ステレオを聞きながらビールを飲むサラリーマンの声が、野良で働く農民の耳に飛び込んでくる時代になったのです。
こうした時代に農業者として生きてゆくには、農業が好きで仕事を楽しむ人間とならなければ、馬鹿らしくて百姓などできなくなると思われます。夏の暑さと闘いながら、田の草取りをしている傍らを、天狗高原に向かうバスの窓から母親が子供に、「勉強しないと、あのオジサンのように百姓さすぞね」と語りかけながら通り過ぎてゆきます。
私たちのような山奥の村にも、こうした観光バスが通るようになったのですから、時代の変遷というのは恐ろしいものでございます。
どのように農業が近代化されても、肉体労働であることに変わりはないのだから、週休2日制が一般化すれば、365日働く農業は、若者から敬遠されても仕方ないかもしれません。
しかし、私は農業を自分の天職と考え、今まで一度も農業が嫌いだと思ったことはありません。農業が好きで仕事を楽しむ人間作りが、農業を守る基礎工事のように思われます。
家が栄える道
どのような職業であろうとも、自分の職業に大きな誇りをもって仕事に打ち込んでいる家は栄えていきます。子供に「勉強せんと、お父さんみたいになるぞね……」。こんな言葉で子供を叱りつけている母親からは、立派な子供は生まれてこないと思います。
「農業が好きで楽しむ」農家は栄えてゆくと思います。子供に「勉強してお父さんの後を継ぎなさい」と教える母親のいる家庭には、立派な子供が育つと思います。農業で楽しまず、お金の消費で楽しむ農家は例外なしに家は潰れてゆきます。 農業が好きで楽しむ人間の役得
「女は男にホレロ、男は仕事にホレロ」と言えば、あなたは男も女に「ホレロ」と反論されるかもしれません。しかし、男なら仕事にホレロと言いたいと思います。農業に惚れて、毎日毎日の農作業が面白くてたまらなくなれば、仕事の辛さが一切なくなります。
夕方になれば、陽が沈むのが惜しくてたまらなくなり、1分でも仕事をしていたい気持ちになります。朝は明るくなるのを待ちきれないで仕事に出るようになります。こういう人には神様は健康を与えてくれます。健康だから、ますます働く、貧乏神の取りつくしまがなく、妻は金を数えるのに血まめができるようになりましょう。
いやいや百姓をする人生よりも、一生仕事を楽しみ、レクリエーションの延長線上に仕事があると考えて働くなら、金銭に換えがたい大幸福といえましょう。
勉強が嫌いな子供に、いくら「勉強しろ」と言っても無駄であります。勉強が好きで好きでたまらない子にすれば、自然と勉強のできる子供に育ちます。農業が好きで好きでたまらない人間になれば、毎日毎日の農作業はレクリエーションの連続となりましょう。仕事が道楽となり、喜びと満足一色の日々を続けられる人生を送ることが、農業をすばらしい職業として、とらえる道に通じると考えます。
そうなれば、朝は妻がまだ寝ている間に起きて働きたくなり、昼は食事も忘れて働くようになり、夕べには「腰の痛さよ、この日の長さ、4月5月の日の長さ」とはならないと思います。日が暮れてゆくことが残念で残念でたまらなくなるのです。
働きが道楽となれば労働時間の短縮も必要ではなくなり、換えって大迷惑となり、百姓仕事はいかなる慰安よりも楽しくなり、日曜も祝日も無用となりましょう。百姓が好きな人間にとっては、毎日毎日が日曜になるのです。年中休日の塗りつぶしとなり、楽しみ一色となるのです。休日の必要なサラリーマンが哀れになってくるのです。「百姓嫌いは職業地獄」となるのです。百姓を好きで楽しむ人間には、消費を楽しむ必要はなく、生産を楽しむのですから、栄えるよりほかにゆくところがないのです。
物心両面の豊かさ
人間と他の動物との違いはどこにあるのでしょうか。「寝たい」「食べたい」と思う気持ちは、動物も人間も同じだと思います。美しい羽で飛ぶ鳥を見る時、衣食住を求める気持ちは同じだと思えてきます。
毎日毎日、必死で食物を求めながら生きてゆくのが動物の世界のようです。厳しい自然相手の中で耕作しないで生きてゆこうというのですから、それも仕方ないことでしょう。動物にとっては、命がけで育てた我が子も、成長すれば生存競争の敵となるのです。シカが子供と別れる姿ほど、涙を誘う光景は他に例がないといわれています。厳しい自然の中では、いつまでも親子が共存してゆくことはできないのです。次に、この親子が巡り合った時は、一つの食物を奪い合う敵として、再会することになるかも知れません。
人間の親子は、子供が60歳、70歳のおじいさん、おばあさんになろうとも、親子の関係は永遠に続いてゆきます。ここが動物との違いかもしれません。さらに動物と違っているのは、物の豊かさのみではなく、心の豊かさを求めようとする点です。仕事を趣味として一生懸命働くことも、万金ためることも結構ですが、心の豊かさを忘れてはなんにもならないと思います。
しかも、物の豊かさと心の豊かさとは、つりあいがとれていなければなりません。たとえば、月収20万の人よりも、40万の収入の人は、倍以上の心の豊かさを求める熱意がなければ、収入が多いために身を滅ぼすこともあるのです。「貧乏暇なし」で働いていた時は、親も子も実に感心する家庭だったのに、金ができると、争いの連続の日々を送っている家庭を見掛けるのは、収入に見合う心の豊かさに欠けたからだと思います。
経済活動における三原則
では、「金のたまる人」「たまらない人」の中から、4つタイプを列記してみたいと思います。あなたがどの方式で生活しているのか、それは私の知る由もないことです。
◎土管式
仮に100万円収入があって、その収入100万円をすべて使い果たす農家は、入口と出口が同じ大きさの土管式経済農家といえましょう。これでは、いくら所得を増やしても、金は1銭も残らないでしょう。「働けど働けど、我が暮らし楽にならず、じっと手を見る」農家です。土管式経済、またはトンネル式経済といい、たいした魅力のない農家といえましょう。
◎ラッパ式経済
入口は小さいが、出口の大きな経済農家をいいます。収入は少ないのに、つかうことばかりに力を入れる経済であり、一生貧乏すること、請け合いです。こうしたタイプには、誇大妄想の人が多く、妻は泣いて生活しています。
◎子宮式経済
入口は小さいが、奥は深く、一度入れたらなかなか外には出したがらず、そのうえ、入った以上大きく育ててから外に出すタイプです。「カカア天下」式経済であり、大きな飛躍もないかわりに、徐々に発展してゆく農家に多いタイプです。
◎風呂釜式経済
入口は人間が入れるほど大きいのに、出口はごく小さな孔しかありません。しかも、その孔には栓をして、水を入れる。これなら金がたまるよりほかに道はないのです。経済にとっては、風呂釜の孔の名を隙といい、この隙からは金という水が漏れるのです。この孔をふさいだら、金という水はたまるよりほかに道はなくなるのです。
百姓が好きで楽しむ生活になると、隙は惜しいと感じるようになります。この隙を惜しむ気持ちが金の漏れる孔をふさぐのです。こうすれば家は栄える一方となりましょう。
よく「稼ぐに追いつく貧乏なし」といわれますが、これには誤りがあります。稼ぐ方式が間違っていれば、いくら働いても豊かにはならないのです。要は、働けば金を使う隙がないから、貧乏は追いついてこないのです。
農業を楽しむ家が栄える真理
皆さんのまわりを、ちょっと横目で見て下さい。金、金、金、金儲けに狂いまわる家は、不思議と金に逃げられ、妻に逃げられ、栄えるどころか、家は倒れてゆきます。
一方、仕事が楽しくてたまらないから働く家は例外なしに成功するのには、深い真理があります。
「稼ぐ気になりゃ、金など要らぬ 金の要るのは遊ぶ人」と言えましょう。
自分のウツワを知れ
人には人の、国には国の器というものがあると思います。己の器を知らなければ、1リットルの容器に2リットル入れようとする愚かな行為を繰り返す無駄な人生を歩むこととなりましょう。いや、企業は1リットルの容器に2リットル入れる無駄を、国民が繰り返すことを期待しているように思います。「消費は美徳」という言葉が、この点を指摘してあまりあると言えましょう。
泡と消えた七桁農業
私が少年の頃は、七桁農業を実現するのが農民の夢でした。
しかし、高度経済成長の波の中で、昭和30年代に入るとあっという間に七桁農業は実現しました。ほっとした農民が腰を伸ばしてみると、工業化社会は早くも八桁農業を要求する方向に進み、補助という「蜜(ミツ)」に、機械化という「毛針(ケバリ)」を仕掛け、農業近代化の波にさらしました。
しかし、所得が倍増されても、八桁農業を実現してみても、物の豊かさのみの追求には限界があり、少しも心身共に農村が豊かになる時代を迎えないままに今日に至りました。
合理化はやがて百姓魂にヒビが入り、単なる金取り競争となり、小農は大農にはかなわないし、大農は小農を踏み台としえ、経営規模の拡大を図ろうとしましたが、気がついてみると、日本の大農も海の向こうから見れば小農でしかなく、かくて日本農業の運命は農産物輸入の自由化を目前に、風前の灯となったのです。
しかしありがたいことに、「大は小を兼ねる」と言いますが、耳かきはスコップには使えません。大野見の小農が大農に勝ち、大企業の農業無用論に立ち向かうためには、大では争わず、小農だからこそ通用する「耳かき」になりきることを学ぶことだと思います。
所得水準の上昇のみにとらわれる心を捨てて、小面積、徹底主義の風呂釜式農業を楽しみ、四季の草花と対話しながら、生きる悦びを満喫し、自給自足の生活を楽しみつつ、親愛の情がほのぼのと滲み出るような心の豊かさへの価値を農村所得の中に計算してゆける、ゆとりのある郷土を建設することが大切だと思います。
闘争世界は人情が薄らぎ、人情は悪化します。日本が現在直面しており、将来もまた直面しうる問題のほとんどは、自己中心的な発想から出発した経済万能のたたりだと思います。
「小面積徹底主義の風呂釜式農業を楽しみ、かつ、なるべく自給自足の生活を営みつつ、お互いに情けの交換で人情を温め、住みよい郷土を建設すること」に努力する農民になりたいものです。
百姓を娘さんがなぜ嫌うか
私は、農業ほどすばらしい職業はないと考えていますので、百姓が嫌われる理由は、間接的にしかわかりませんが、物には表と裏とがありますから、農業のウラに触れてみたいと思います。
まず、地理的に不便であります。そのうえ、粗衣、粗食で日に焼け、土にまみれ、家畜の糞にもつれ、朝に夕に、「寒い」「暑い」とは言わず、重労働の連続の時もあります。 特に畜産などは休暇日も休めず、しかも作物には天災地変で豊凶があり、収入は安定していません。安定しているのは低所得と重労働です。
禾を耡きて日は午に当る(作物を耕して正午になった)
汗は滴る禾下の土(汗が出て作物の下の土に滴る)
誰れ知らん盤中の喰(皆さんご承知か、お膳の中の夕食は)
粒々皆辛苦なる事を(粒々辛苦の結晶である事を)
唐の秀伸は「貧農の詩」と題して、こんな詩を後世に残しています。しかし、今の子供たちに、この秀伸の気持ちは通じないだろうし、理解を求めることは無理な時代ではないでしょうか。
農業が嫌われる条件
農業が社会的地位としては今も低く見下げられていることは事実です。
「そんなことはない。職業に隔たりはない」と皆さんはいちおう反論されるでしょう。
しかし、人間的には頭を傾けたくなるような人でも、医者であり、弁護士であり、大臣であったとするなら、いちおう、農民よりも、社会的地位の高い人だと社会は言うに違いありません。
世の親たちも、子供が大企業に就職できることを願い、一流大学を卒業して医者や大臣になることを願う気持ちはあっても、立派な農民になるために、東大を目指して子供の尻をたたく教育ママや教師にお目にかかったことはありません。
PTA役員として恩給がつくほど、長い間現場の先生方の教育姿勢も見せていただきました。国鉄ですら、分割される時代だというのに、教育現場は同一線上に画一化され、一人一人の教師の個性が発揮されがたい教育環境となっているように思われます。これでは、立派な教育を望むほうが無理でしょう。それでも、教師への希望者が若者に多いのは、他の職業より、物心両面で優遇されているのが大きな原因かもしれません。
教育改革は、文部省、ひいては教育委員会そのものの改革なくしては望むべくもないかもしれません。表面的には「高校全員入学」を叫びながら、一方では、厳しい試験競争に勝つために「私立校」を目指して、教師も、我が子の尻を叩く。「職業に隔たり」と教壇で教えながら、第一次産業中心の県、高知の教育は、いったいどこへいこうとしているのだろうか。
凧の自慢
凧が風に吹かれて、空高く上った。得意になって下を眺めたら、貧弱な蝶たちが舞っていた。
「オーイ、チョウチョウさんではないか。僕はゴミかと思った。なんで、そんな地べたで、モヤモヤしているのか。これ、私を見なさい。やがて、雲に届きそうだぞ」
自慢そうに凧はチョウチョウに話しかけた。チョウチョウは仰ぎ見ながら答えた。
「なるほど偉い。よく昇りましたね。しかし、たった一つお気の毒なことがあります。アナタにはヒモがついていて、あちこち引きまわされ、万が一ヒモが切れたら、それでおしまい。私は貧弱ながら、見て下さい、一切ひもがありません。自由勝手に我が意のままに飛び回れます」と、凧に言い返した。
凧になるか、チョウチョウの道を選ぶか、それはアナタの自由だとしても、凧には凧の恨みがあるのです。
「ああしたい、こうしたいという理想、すなわち、夢のない人間には、せっかくながら、自由の甲斐がない」のです。
理想に燃え、将来に夢を描く人ほど農業の有り難さが分かってくるのです。
「農業は天を父とし、地を母とする神人合一の職業」なのです。
味覚とは何か
旅行をして感じることは、どこのホテル経営の合理化の名のもとに、客よりも経営を優先させていることです。いかに少ない人件費で対処するかに懸命で、そのためには、インスタント料理が出され、朝食はほとんどのホテルでセルフサービスとなっており、もはや食べ物として味を満喫することは現在では無理かもしれません。現在のように飽食の時代では、味ぐらい本物をじっくり噛みしめたいものです。
味には、料理のもっている味と、心の味の二通りがあるように思われます。心の味には、一つは生産する喜びを感ずる味があり、ふたつめは金を使う喜びを感ずる味、すなわち消費の味です。
一番目の味
生産する味を大切にする農家は必ず栄え豊かになります。反対に、金を費やす消費の味を好む家は貧しくなってゆくと思います。しかし現在は、消費は美徳とされ、消費を楽しむ味が主流となってきました。これも工業社会として発展していくためには必要かもしれませんが、貧しい国民は、しだいに「消費を楽しむ」生活のために、収入より支出が多くなり、ウサギ小屋で生活するようになったのです。
消費が目的になってまいりますと、消費のために人間が使役されてゆくことにしかならないと思います。貧乏するために生きているようなものです。
過剰投資をして、機械機械と大型耕種農業を目指し、化学肥料を使い、冬にトマトをつくる農業のなかでは、農業の味は失われても仕方ないと思います。
もっと次元の高い味を生活のなかに見つけだしてゆく生き方、現象面のみにとらわれない生き方を自然のなかに見つけ出す姿勢が必要ではないかと、ホテルの食堂で考えさせられたことでした。
将来子供と、どんなに離れて生活するようになろうとも、オフクロの味をいつも忘れないような家庭の味が大切だと思うのに、最近農家から「家庭の味」が失われているように思えて残念です。
味とは何か
味覚には個人差があり、同じ料理でも、親子といえども味だけは食べねば本当の味はわかりません。子供に、農業の味を満喫させたいと思えば、親の仕事を子供に手伝わせながら、たとえ1坪でも、子供に畑を与え、花でも、野菜でも作らすことが大切だと思います。1羽の鳩でも、責任を持って飼わすことです。そして、子供の育てたものを我が家の料理に加えてみるもよいし、出荷して利益を得る喜びを親子で味わうのもよいでしょう。
子供は自分の育てた農産物が利益として返ってくる喜びに感激するに違いありません。これは子供に農業の味を味わわせて、百姓好きにする極意だと思います。
農家の子供でありながら、縄もなえない子供やニンジンに青い葉がついていることを知らない子供が育っていることが、子供の成績が上がらないことより、はるかに重大であることに、教師も親も今気付かなければ時を失うと思います。
三代続く長者無し
何とか努力して、もっと峠へ近づきたいと頂上を目指して登る時が一番幸福な時かもしれません。
「上り坂による幸福製造基礎工事」中といえる時期でしょう。
しかしこの時も、よく足元に注意していなければ、恐ろしい落とし穴が待っていることがよくあります。登る時はよいが、いつまでも上り坂ばかりではありません。やがて頂上が待っているし、峠を越したら下り坂となります。
ここに「長者三代無し」が手をこまねいて待ち受けているのです。
この魔の手から逃れるためには、
「消費で楽しむ人間になるな」
「生産で楽しむ人間たれ」ということになりましょう。
財産は溜池にしか過ぎません。生産は、この溜池にこんこんと湧き出る泉だといえましょう。
自然保護の立場からも、この湧き水を大切にしなければならないと思います。
「財産に頼るな、生産に頼れ」
これが上り坂人生の最も大切な真理といえましょう。日本企業のようにいつまでも上り坂と思って限度を忘れていると、国際社会から孤立させられ、いずれ倒産が待ち受けていることとなりましょう。
経営は人なり
日本中を歩きまわって感じたことは、立派な経営をしている人は、共通して立派な人格の持ち主でした。
「物をつくる前に人をつくれ」ということになりましょう。どんなに科学が進歩しても、終局においては人が立派でなければ立派な経営はできないといえましょう。「魂仕込み」が何よりも優先すべきと考えます。しかしこれは税金もかからないかわりに、無形の財産づくりだから少々厄介です。
燃えるがごとき農魂の持ち主に師事すれば、理屈は抜きにして、農魂が伝染すると思います。理屈は大学で4年も学べばいちおう通用しましょうが、「人づくりのための魂仕込みは、その道の達人に師事すること」が最善の道であります。それもなるべく若い時に、達人の門戸はたたくべきでしょう。
成功の秘訣
農業での何よりの楽しみは上り坂の時でしょうが、上り坂を歩くコツを知っておくことも大切だと思います。
私は少しばかり鶏を飼っていますが、何よりも大切なことは、「卵の値上がり」ではなく、「値下がり」であります。
値が下がれば赤字となりますが、赤字の時も経営は絶対続ける決意をすることです。
次に「1銭でも無駄はないか」と血まなこになって研鑽努力することです。不況の時こそ経営合理化のチャンスといえましょう。
生産原価をどんどん下げる努力を重ねてゆけば、次に値上がりした時、利潤の幅はより多くなるはずであります。
値下がりをした時の、ドン底が深ければ深いほど「死にもの狂いの真剣勝負」となり、魂も腕も磨かれるのです。
赤字の時、身についた質素な生活を、値上がりしても続けてゆくことです。
成功の秘訣は「最悪の場合に通用する人間になること」だと思います。
最悪の時こそ成功への道が開かれる時であり、徹底的に悪戦苦闘することにより、人心は磨かれてゆくと思います。
「艱難なんじを玉にす 玉磨かざれば光なし」といえましょう。
北海道の酪農地帯を歩いてみて、気付いたことは、東北の貧農出身者がずいぶん多いことでした。内地で苦しい生活を体験していた人ほど、成功しているということです。
肥沃な土地の苗を、ヤセ地に移したら育ちは悪いが、ヤセ地で育てた苗を肥沃な土地に移したら育ちが良いのは道理にかなっているからと思います。
真理の行者にならなければ、真の繁栄は望めないと思います。
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