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出発
○月○日
九州方面への視察のため、本日より出張することとなった。
我々を乗せて出発するバスは、巨大な鉄の固まりだった。そのうえ、四方にタイヤなるものが取り付けられており、これが回転して前後に動くように出来てきた。
アメリカでは、これを鉄のカンオケとも走るカンオケともいう。
鳥が飛ぶのを見れば、人もまた空を飛びたいと願い、矢のような速さで地上を駆けめぐる動物を見れば、人はまた彼らより速く走りたいと願う。人間は、この限りない欲望を、万物の象徴であることを自他共に認め、自負するがごとく、ことごとく叶えてきた。
しかし、高く速く飛ぶことも,地上をいかなる動物よりも速く走ることも、便利になったという視点からは満たされたと言いえても、必ずしも、それが人間の幸福へとは直結しうる一面的なものでもないことを知らなければならないと思う。
いや、私たちは今、好むと好まざるとにかかわらず、科学の発達と同一線上に人類の幸福を描く発想の誤りに気づきはじめているように私には思えてならない。
高く速く飛ぶことは、少しでも有利に戦うことを目的とする一面を持って発達してきたし、より速く走る目的は,陸上での戦いをより有利な方向に展開しようとする意図のもとに限りない発展を遂げてきたことも事実である。
たしかに、歩くよりもバスを利用するほうが、より早く目的地に到達できる。しかし、神は物に表と裏を作りたもうがために、便利さとともに交通戦争という恐ろしい一面を兼ね備えることもお忘れにはならなかった。
常に相対的配慮を必要とするものが車である以上、いかにベテラン運転手といえども、100%の安全は要求されても、絶対的な保証は約束できない。
この鉄の固まりに取り付けられている四カ所のタイヤは、地上と鉄の固まりを結ぶ唯一の部品でもある。
人間の貪欲な願いを叶えるために、マツダなる会社は横にも走れる車を造り、鼻高々である。カニは、恐らく前向きに歩きたいと願いながらも横にしか歩けず、長い間悩んで生きてきたかもしれないのに、なんで前後に動ける車を横に転がして満悦しなければならないのだろうか。人間は、時としてその欲望に限界をもちあわす理性がないと、欲望のために人は、この地球に生存できる可能性を、好むと好まざるとにかかわらず、少しずつ失うことになるのではなかろうか。
物質文明は人を便利にはしたが、終局において人を幸福にしうる保証は兼ね備えてはいなかった。物の豊かさ、便利さのみの追求もさることながら、「心の豊かさ」という根の上に築かれる物質文明でなくては、宇宙船地球号は大切な均衡を失うことになりはしないか、と心配になってくる。
○月○日
車は県境をいつしか越え、久万町に入った。久万町には、高知は佐川出身のS君が頑張っている。彼ら親子は、豊かで、生活も安定している「ふる里」佐川町に“さよなら”をして久万町の未開の荒野に安住の地を求めたのである。
既成農家にできない農業を久万に求めたこの一家は、何を柱に生きようとしているのだろうか。
冬は北国並みに雪の降る久万町という自然条件の厳しさと戦いながら、新しい町づくりのために理想に燃え、一歩一歩実現への努力をしてゆく日々は、開拓魂の血が躍動する日々であり、そのエネルギーは自然との調和のなかで、この親子をして今日のモデル農業を実現させたすべてではないかと思う。
厳しい自然と対立し戦う姿勢からは、この久万町に人が生きてゆける農業のないことをS君親子が悟るには長い日時を必要としなかった。自然と対立するのでなく、調和してゆく生き方への模索と努力の集積を見捨てるほど自然は非情ではなかった。
入植してから数年の間に、しいたけ、リンゴ、大根(夏)を中心に、都会の人々が羨ましがる理想の経営が実現したのである。
観光農園として、時代の最先端を開拓したS君親子の成功が、久万町の今日の発展への道しるべとして果たした役割は筆舌に表しがたい。これから、時代はどう変わりどう歩もうとしているかを知るほど私に知識も知恵もないが、S君親子の自然と人為の調和のなかに発展を願う経営姿勢は永遠に変わることなく、また変わってはならないと思う。
こんなことを考えていたら、バスはいつしか久万町を通過し三坂峠へと快調なエンジンの響を夜の山々に伝えながら、深夜の国道33号線をひたすら走りつづけた。
松山死
○月○日
車はアッという間に三坂峠を下り始めた。峠から下る坂道は、美しい松林が続いているはずなのに、緑は失われ茶褐色の林しか見えなかった。これでは、松山市ではなく「松山死」である。松は1本残らず枯れていた。松食い虫による被害である。
地球の砂漠化は緑豊かな我が国でもすでに始まっているのだろうか。なぜ松食い虫はこれほど我が日本の山々に猛威を振るっているのだろうか。
*
思い返せば、1960年(昭和35年)、安保の嵐が吹き抜けた後に池田内閣が生まれ、「所得倍増論」が登場するに及び、いよいよ高度経済成長に一億国民は突入した。1961年6月、国会において「農業基本法」が制定され、容赦なき零細農家の首切りが始まり、大規模自立農家を育成するための農業近代化という名の下に、借金と補助金による農業近代化路線は登場した。木造の牛舎は鉄骨畜舎となり、木のハウスはパイプハウスとなり、ビニール農業は石油文明発展への初歩的役割を果たしてきた。
農業の近代化は、日本が工業国として発展してゆくために必要な第一ラウンドだったのである。工業製品が、木を使う施設よりも近代的であると考えるに及んで、農民の考え方も次第に自然を離れ、心より物を優先する思考へと変貌した。
かくして農民魂は、意識すると否とにかかわらず失墜し、効率の悪い経営は切り棄てられ、機械化、装置化せられ、「育てる農業」から「生産する農業」、言い換えれば工業生産方式の農業化へと進んだ。作物を作る前に人をつくり、土をつくる農業の姿は消え、地力にたよらず資本にたよる農業があたりまえとなり、自然の循環系にたよらず科学技術が主役となり、堆肥は化学肥料に変わり、天敵を殺し、農業が主役の時代へと突入した。米も野菜も大地が作りだしたものではなく、石油の変形にしかすぎない農業があたりまえとなっていった。
農民が農業近代化を直視している間に、いつの間にか我が国の林業は見捨てられ、外材が主役となっていった。「工業立国が我が国が歩むべき道であり」とするなら、あえて避けて通ることのできない必然的判断だったのかもしれない。
国産材よりも安いと、消費者も第一次産物の輸入にはさして疑問も抱かなかったかもしれないが、神々は輸入の陰でもう一つの贈り物をプレゼントしてくれた。松食い虫である。かくして日本の山々から今、緑は失われ、松は1本残らず山々から姿を消そうとしている。日本で使用される建築材は外材が主役となり、松食い虫の助けも借りて、ますます輸入材の比重は高まり、見返りに工業製品の輸出は伸び、工業立国への順調なスタートとなった。
経済大国日本の商社にとっては、笑いが止まらない状態かもしれないが、一方では自然破壊は始まり、木は枯れ、ブルで痛めつけられた山々からは、土石流が集落を呑み込み、やっと手にしたマイホームとともに、多くの人命までも奪う結果となった。
第一次産業を中心とした国づくりが、独立国の基本であることを忘れた政治の誤った姿が、この松山の枯れた松のなかに象徴されているように見えて悲しかった。
日本が歩んできた工業化社会は根とのバランスを失った大木のような気がするし、食糧までも「安ければ輸入すればよい」という理論が、財界はもとより、国民の中にも市民権を得るほど公然と語られるようになったことは、何と悲しいことであろうか。
第一次産業中心の発展を忘れた現実を思うとき、日本経済は遠からず限界に到達し、今度は松に代わって我々人間の方が心まで蝕まれ枯れてゆく運命にあるような気がしてならなかった。
松山港
○月○日
あれこれ考えながらウトウトしているうちに、やがてバスは松山港に着いた。
海は形容しがたい臭気を放っていた。この臭気は果たして我々現代文明社会に生きる人間に何を語りかけ、何を訴えようとしているのだろうか。
昔は水は三尺流れれば水神様が清めてくれると人は信じ、また自然にはそれだけの浄化能力があった。人口が増え、工業廃液が大量に流出するようになっても、人はなおこの水神様の力を信じようとした。「少しぐらいなら」「広い海だから」「我が社の廃液ぐらいなら」という甘い考えで流し続けたがゆえに、今、海ですらその浄化能力を失ってしまったのである。
一度失われた自然は、二度と元には戻らないかもしれない。
琵琶湖が、世界中の学者が額を寄せ合ってもなお、元の美しい水を取り戻す方向への結論を得られなかったように、この海も、いつしか第二の琵琶湖となってしまうのではなかろうか。
誰がこんな海にしてしまったのだろうか。家庭廃液も、もちろん原因の一つではあろうが、昭和30年代から歩み始めた日本の工業化社会への選択に要因の大部分があると考えるべきではないだろうか。
思い返せば、水俣湾では魚を常食するネコが狂い死んでいった。人間よりも小さい動物なるがゆえに、人間よりも早く狂い死んだのだろう。人はその時、ネコが、次に人間がなりうるであろう姿を教えようとしていたことに気がつかなかった。工業化社会は、人がこのネコから教わる真実を、ひたすら覆い隠すことのなかに繁栄への道があると考えていたかもしれない。
考えてみれば、住民は弱者である。国が安全だと言えば、国が安全だと言えば安全を信じ、企業が安全だと言えば安全を信ずるよりほかに、どんなとるべき方向があったというのだろうか。
世界中の学者は、言う。
「公害のなかで人間がどれだけ生きてゆけるか、日本は、その実験場だ」と……。
一路玄海へ
○月○日
ホテルを出発したバスは、北九州工業地帯を一路玄海へと走り続けた。車窓からは、日本の工業化社会を象徴するかのように、火力発電所の高いエントツが朝の空に乱立していた。灰色の煙は長く、工業地帯の上に帯のように流れていった。
「この高速道路の下も、街の地下も、石炭を掘るために網の目のように坑道は張り巡らされています」
ガイドは、かつて石炭が時代の花であったときを懐かしむかのように説明してくれた。
石炭から、石油中心の火力発電へと、日本のエネルギーは代わり、今や、石油による火力発電さえも、時代の波に押し流されようとしている。石炭は日本の地下資源として、貴重なエネルギーではなかったか。山を愛する多くの坑夫の首を切り、労働者たちの職場を奪ってまで、なぜ石油エネルギーに代えてしまわねばならなかたのだろうか。
難解はことは、私にはわからないが、要するに石油を輸入するほうが商社の利潤が高いこと、自動車産業を中心とした我が国の工業製品輸出への対策としても、好都合だったかではなかったか。
そんなことを考えながら、バスに揺られていた。
*
思い返せば、国のエネルギー対策のもとに、山を愛する人々の心情は無視され、ついに炭坑の灯は消えた。いや消された。
果たして、エネルギー問題は、石炭を放棄することによって、解決への道を開いたのだろうか。
オイルショックを経験した私たちは、海外にエネルギーを求める産業が、どんなに単純にして、危険な運命のもとに、玩ばれている短命な花でしかないことを知ったはずである。
「石炭から石油へ」、「石油から原子力へ」、いま変わろうとしている。
しかし、石油もウランも外国に依存しなければならない以上、しかも、そのすべてが有限の資源である以上、果たして、ウランが次の時代の花形となりうるエネルギーといえるだろうか。ひとごとながら心配になってきた。
「核エネルギーは、地球上に人類が生存していくための最後のエネルギーとして、私たちは期待し続けて誤りはないのか」、素朴な疑問がわいてきた。今のままで進行すれば、石油よりも早くウランの方が心配になってくるし、海中から採集するといっても、まだ理論上での話でしかない。
食糧もエネルギーも外国に依存して繁栄していく道を歩む、日本の明日にバラ色の夢をどう描けばよいのだろうか。
白い円筒
○月○日
バスは、いつしか玄海へ入った。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の基地でもあり、古くからひらけているはずの玄海町ではあるが、車窓から見る自然は、ここに住む人々に長い試練を与え続けてきたことを物語っていうように思えた。
漁場は荒れ、かつての面影は、もうどこにも残っていないように思われた。
そのうえ、農林業の繁栄しうる条件は、大野見よりももっと厳しいものがあるように感じた。木の育たない山々や、「米がやっと作れる」と表現するのが妥当と思われるような耕地には、先人たちの生きるための苦しい歴史が刻まれているように思えてならなかった。
大都市に必要な電気も、過疎に苦しむが故に、原発を受け入れざるを得ない町や村があってこそ、供給が可能なのだろうか。
「白い円筒形の原発施設」。それは生まれて初めて見る、巨大にして異様な光景であった。
安全であり、なんの心配も無用な原発ならば、なぜこれほど不便なところに建設するのだろうか。素朴な質問がわいてきた。しかし、答えを模索する間もなく、バスは事務所前に止まった。
処女膜と原発
○月○日
小さなホールに案内された。原発に関するビデオが放映されたあとで、会社側からの説明が始まった。
過去何千回か同じような視察者が訪れ、同じ話が繰り返されてきたに違いない、と私は思った。窪川町に隣接する村の議員視察ということで、それなりの気配りをしていることは、鈍感な私にすら伝わってくるようであった。
九電側のプロの説明は始まった。
「いま日本では、娘さんたちのあいだで、『処女膜の再生』が行われている」
「こんな無駄をするから原発は必要なんです」
力強く自信に満ちた説明であった。
窪川町の娘さんたちは、「原発が必要なほど、処女膜の再生をしているのだろうか」、「それほど性道徳は乱れているのだろうか」。私は頭をかかえこんでしまった。
本当に処女膜の再生が原発肯定論に直結するほど重要な意義をもっているなら、なぜ日本の女性に性道徳の大切さを指導することを優先させないのだろうか。また、国民の無駄な資源の消費に対する警告への比喩ならば、もっとほかに言葉がありはしないだろうか。
女性が歴史を変えるほどの強い力をもっていることは、戦国時代から歴史の認めるところだが、女性の腰が原発をまわす力まであるとは、九州電力さんに教わるまでは知らなかった。
○月○日
ホテルの窓から、夜景を眺めていると、大野見の素晴らしさが、好むと好まざるとにかかわらず、脳裏を去来していた。「貧しい」ということがすべての倫理に優先するものならともかく、玄海の人々が、それぞれのもてる力を結集して、一歩一歩進むことの尊さを忘れて、棒高跳びのような飛躍を期したところで、将来へのバラ色の夢との接点を、どこに求めればいいというのだろうか。
貝は、自分がやっと入れる穴にしか入らない。必要最小限の欲望に満足しているのだ。玄海を見ていると、クジラの寝ぐらに入った貝のような気がしてならなかった。
「飛行機は落ちても、また君たちは利用するだろう。原子力の安全性は飛行機以上である」
電力会社の説明が脳裏に浮かんでは消えた。飛行機事故と原発事故とは、同一線上で論じるべき性質のものではないことはいうまでもないが、金に目のくらんだ人々には爽快な理論として受け入れられてきたし、これからも受け入れられてゆくことだろう。
原発と金
○月○日
玄海町は古ぼけた中に昔の面影を残し、心のふるさとを感じさせるような町であった。「苦しく貧しい」過去の歴史を、町のたたずまいは今も私たちに語りかけているようであった。
「原発さえできれば……」
貧しさ故に、町が目の色を変え、「金」「金」「金」と心を原発にかたむけていったとしても、誰に責めるべき資格があったといえるだろう。
しかし、貧乏人が金をもつことの悲劇は、この町とて決して例外ではないと思う。だが、住民がこの悲劇の主役を自ら演ずることで、運命に弄ばれるということを知るには、まだ多くの授業料を支払う必要があるだろう。
電源三法によって手中にした金は、苦労して働いて得た金ではなく、転がり込んだ金だけに、使い方も荒く、「あれよ、あれよ」という間に町は変貌し、町民は改めて原発のもつ金の力を認識させられたのである。
玄海から約8キロ、町の中心地にこうして建設された町役場はあった。長い間使われてきた、古い、今にも倒れそうなオンボロ旧庁舎からは想像もつかない、とてつもなく巨大な新庁舎であり、議事堂であった。鉄筋一部5階建て、6800平方メートル。工費は一般町村庁舎の建設の5倍以上の金の入れようで、じつにその額21億7000万も要したという。耐用年数70年として、年間3000万円の償却費を必要とするうえに、年間5000万円の維持費がかかる。したがって、年間8000万円が必要である。高知県日高村と同じくらいの小さな町にとって、どれほど無駄な庁舎であるかはこれ以上の説明を要しないだろう。
この時にっこり笑って町を去った集団があった。大手建設会社の人々である。原発によって町に大金が転がり込むことで、あたかも町民一人一人が大金持ちになるかのような錯覚に陥れ、あげくには、住民は膨大な維持費のために、高い税金を、気の遠くなるほど長期にわたって支払い続けなければならない仕組みになっていたのだ。
学校施設
町内6小学校には、立派すぎるというより、不相応なプールや体育館はもとより、新しく4保健所を新築した。金は使い放題である。そのうえ、温泉付きの福祉センターはもとより、特別老人ルーム、ナイター付きの町営グラウンドと、あっという間に、公共施設は建設されていった。かくして佐賀県でもっとも貧しかった玄海町は、公共施設は日本一といわれるようになったのである。
住民の所得は停滞したままで、施設だけをどんどん立派にして、町財政は将来どうなっていくのだろうか。ひとごとながら心配になってきた。
この町はやがて行き詰まる時がくる。いや、こなければならない運命にもてあそばれて、20世紀最後の幕引きを演じているように思えてならなかった。
金を生む原発
「金を生む原発」という言葉は、この町が原発立地で得た大金からして、当然のことかもしれない。1、2号機の電源三法交付金が総額で約17億円、1976年からの1、2号機の固定資産税が1984年まで計80億円、気の遠くなるような大金が入ったことは事実である。
苦労しない金は「使え、使え」で、1983年一般会計は原発建設に着手する前に比べて、約10倍の35億4600万円である。
金のなる木はまだまだ育っている。3、4号の増設が決まれば、電源三法交付金が1985年度から9年間の分割で総額75億円、完成後の税収が、私の試算では100億を超すと思われる。そのうえ、九電側が同町に、協力金として30億円を支払うことになっている。
ところが、豊かなはずの財源にも1982年をピークに目減りが始まった。大金を突然手にすると、人はときとして永遠に大金がついてまわるがごとき錯覚にとらわれ、停止能力を失うものである。
電力側から町側に支払われる固定資産税は、設備機械などの焼却資産の影響もあり、年々少額になってゆくことは当然である。そのうえ、原発による大金が入ったことで地方交付税不交付団体になっていることを忘れてはならない。「豊かな財源をもっているから、公共施設は全額町の財政でまかないなさい」と国からいわれたのである。かりに100億の電源三法による交付金が町に入ったとしても、実際には交付税の不交付団体に指定されることによる目減りと、必要以上に贅沢な施設をつくらざるを得ない社会的住民感情を考慮するとき、実質的には3分の1以下の浄化しかすべきではないと思われる。100億の交付金も実質価値は30億の力しかない……という認識をしていないから、いくら原発を増設してもすぐ町の財源は底をつくことになるのだ。
その証拠には、1988年度からは、再び交付団体に逆戻りせざるを得ない状態となっている。町側としては、電力側に土下座してでも原発の施設をお願いしなければ、公共施設のために必要な年間6000万円の維持費は、住民のうえに重くのしかかってくることだろう。3号、4号、5号と原発は増設されたとしても、永久増設し続けることはできない。おそらく5号炉までで終末を迎えることだろう。その後の財源は、この町にとって、どう影響していくのだろうか。重い税金は、この玄海の人々に大きくのしかかり、巨大に成長した大木も根との発育のバランスを失うとしたら、旱魃(かんばつ)に枯れ、嵐に倒れるように、またもとの貧しい町に戻ってしまうのではあるまいか。
町企画課によると、財調基金は1984年にはわずか3億数千万円になったという。1988年には、私の試算では、失礼ながら、3億をはるかに割っていることだろうと思われる。
財政を維持するために、さらに原発の増設を求める方向にはしり、4号、5号と建設されても、おのずから限度がある。原子力発電を通じて、玄海の町民は、確かに、エネルギーの飽食を求める社会の中で、一時的にせよ、金のなる木を手にした。金の力の上に築かれる生活の豊かさに、満足できた喜びは無上のものであったのかもしれない。しかし、1号機から次々と原発の墓場は玄海町の町の中に永遠に残されていく。この町の子や孫たちは、親たちがエネルギーの飽食をした後に残した巨大は排泄物を、半永久的に守り続けなければならない。
しかも、何の保証も孫たちにまでは電力側も国も責任をもたない。保証金は「子や孫の分も親たちに支払っている」と電力側はいうだろう。それが電源三法なのである。
こう考えると、玄海の豊かさは、束の間の豊かさでしかないような気がしてならない。
三法による今の大金も玄海の子孫にとって、果たして永遠に大金であり得るだろうか。親たちが子孫のためにも解決しておかなければならないはずの「原発墓場」の守りをどうするか、答えを出さずに花だけを一時的に切り取って、束の間の満悦に陶酔する代償として、子孫に大きな宿題のみを託そうとしているのではなかろうか。
この問いかけには町民も町長も答えはできない。原発がもっている問題の本質は、まさにここにあるといわなければならないだろう。子供たちのために今大人が贈るべき最大のプレゼントは、立派な鉄骨の校舎ではなく、今解決しなければならないこの宿題を、子供たちの時代にまで持ち越さない愛ではないか。
街角で遊ぶ子供たちの屈託のない姿のなかに、こんな感じを抱きながら玄海をあとにした。
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